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「私の師匠 齋藤守弘先生を想い出して」

私の合気道は開祖と齋藤守弘先生からご指導を戴いたもので、特に齋藤先生には22歳から20年間、多くのことを教えて戴きました。合気道はもとより、農作業、庭作り、植木の手入れ、建築のイロハ、酒のマナー・つまみの作り方、接客等々、思い出も数えきれないほどあり、何から書いてよいか分かりませんが、イントロの部分は当時の状況を知って戴きたく、前回に寄稿した「大先生のお話しを想い出して」の文を使いました。

​入門当時

私が入門した昭和33年(1958年)、内弟子でお世話になった昭和44年(1969年)と現在の合気道界の環境は余りにも違います。 昭和33年当時の合気神社付属道場(現 茨城支部道場)付近は人家がほとんどなく、街灯もなく、鬱蒼とした椚林で、稽古に通うのに勇気がいる所でした。 開祖のお住まいは道場(当時24畳)と廊下でつながっている四畳半の居間と四畳半の寝室からなる質素な佇まいで、内弟子をしていた西内さんと、既に現在の場所に住んでおられた齋藤守弘先生(平成14年5月死亡)ご夫妻が、開祖ご夫妻のお世話をされていました。 中学一年生の私は、大人の先輩方に混じって夜7時から8時の稽古をしました。 夏場は畳の床が蒸れるので、道場の隅に畳を片づけ板の間で稽古をします。当然ながら膝の皮は剥け、そこが化膿し辛かった思い出がありますが、受身はゴム鞠のように取れとの教えでしたので、どのような所でも受身を取る自信ができました。土地柄、先輩方は自営農業者が多く、今のように機械化が進んでいないため、何でも人力で作物を作っておりましたので、毎日が肉体を鍛えているようなもので、自然と身体が出来あがっておりました。 また先生が合気道に入る前に空手をやっていた影響で、それぞれ自宅に巻き藁を作り拳や手刀等を鍛え、横面打ちの受けの鍛えは木剣で打ってこさせ、それを素手で受ける鍛錬をしていました。 このような道場ですから、他の道場から来て稽古した人には、厳しく感じられたと思います。 入門二年後に初段を頂いた証書番号が723号ですから、合気道界全体でも会員数はまだ多くなかったと思います。

内弟子として

昭和30半ば~40年代、先生は週1回の割合で本部道場の稽古を担当していた関係で、木造の本部道場に連れて行って戴き、その帰りには茨城県竜ヶ崎市にあった武田さんの道場で稽古をし、帰りの電車の中でアンパンを買ってもらい、先生は日本酒を美味そうに飲んでおられました。その52年前の記憶が今も鮮明に思い出されます。

私は昭和39年、日本大学の合気道部に入り、金井満也先生(故人)並びに有川定輝先生(故人)にご指導を戴き、昭和44年(開祖昇天の年)9月に先生にお願いし、内弟子として茨城道場(現・茨城支部道場)に約2年6ヶ月お世話になりました。先生はこの時41歳で、国鉄に勤務しておられ、長女の始巳さんは高校2年生で長男の仁弘君は小学6年生でした。道場敷地内は原野で草は身の丈以上に伸びていたので、夏などは風呂からでて、真っ裸で夕涼みができました。もっぱら内弟子の仕事は草刈りで、先生が夜勤あけで仕事から帰ってくると、二人で草刈りをするのが日課で、汗と泥で身体中真っ黒になり、草かぶれと蜂との戦いで苦戦しました。広大な敷地(約2.5町歩)なので半分ほどきれいにすると、もう片側は手の施しようのない状態になり、常にエンドレスの仕事でした。稽古が終わると先生と道場の食堂でカストリ焼酎「松緑」やサントリー「レッド」をよく飲みました。一芸に秀でた先生は、料理の腕前もプロ並で、好んで作った物は餃子、鰹のたたき、鯉の洗い、軍鶏のさしみ(戦いに負けた老軍鶏)、手打ちそば、うどん、もつ煮こみ、・・・・多くの方々も先生の手料理に舌鼓を打った事でしょう。

 

先生が開祖の下に入門されたのは、昭和21年で私が生まれた年です。それから23年間、開祖ご夫妻にご夫婦でお仕えし、開祖昇天後、修行体得された合気道を、後世に伝えていこうと先生が決心するまでには、数年間の時間が掛かりました。使命は立派でも、経済的問題から逃げるわけにはいかなかったのだと思います。国鉄を辞め合気道を専業にするようになっても、暫くの間は生活が大変だったようです。弟子の月謝を当てにすると良い指導はできないと、よくおっしゃっていました。奥様も農作業で野菜を作り、夜は「焼き鳥や」を営んで家計を支え、先生も日中は羊羹の箱作りなどの内職をやっていました。

齋藤先生の御指導

昭和46-47年頃から、外国より修行にくる人達が少しずつ増えてきました。サンフランシスコに道場を開設したビル.ウィット氏の招きで昭和49年(1974年)10月、先生と私はサンフランシスコに初めて行きました。当時はビザが必要で疱そうの予防接種を受け、為替は1ドル360円の時代で1ヶ月分の給与を交換しても100ドル位であったため、お土産を買うのにも大変でした。岩間町長でも海外旅行の経験がない時代ですから、田舎の習慣で先生の壮行会が毎晩催され、出発の当日、先生は二日酔いで、電車の中はトイレに行きっぱなしで席に座っていられませんでした。昭和51年(1976年)8月、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ハワイと二度にわたりお伴させて戴きました。

国内も招待を受けた講習会や演武会は積極的に参加され、開祖から授かった合気道の検証に費やした時期であったように思います。昭和48年9月に合気道「剣.杖.体術の理合」第1巻を上梓されました。開祖は合気道を説明する時、木剣.杖をもってされていたし、先生も体術の基本は剣の理よりきていると教えられた。確かに開祖がおっしゃっていた「一重身」は剣をやらないと理解できないと思います。剣も杖も合気道の剣・杖であり、剣道の剣とも杖道の杖とも違うのです。我々は有り難い事に、「一教の裏技は押し気味、ねじり気味に丸く押さえなさい」、「二教の裏技は相手の手首をしっかりと掴んで、もう一方の手は手刀で相手の手首を斬り下げるようにする」、「三教は必ず相手と相並ぶこと、とった手は胸につける、当て身を入れながら前にまわり」、「五教は大波のごとく」「小手返しはなるべく下の方でとる、抑えは自分の腹を相手の頭の上にもっていけ」、「四方投げは相手の体制が崩れるまで両手は頭につけるようにして投げること」、「横面打ち四方投げは下まで斬り落とす気持ちになれ」「片手取り四方投げ裏技は開きつつ相手の手首を握りつつ後ろを斬り払うように」「半身半立片手取り四方投げは膝が進み手は前額部にもってくる」「入り身投げは、相手の後衿を取った手は自分の胸元に引き寄せる」「片手取り回転投げの足は三角を描くように入れ」「正面打ち腰投げは足を相手の両足の間に進め、手は柱のてっぺんを指さすような気持ちで、自分と相手の体が十字になるように腰板の部分を相手の下腹にあてがう」「十字投げの手の取り方は、小手先でやらずに足で取れ」等々、開祖の口伝を以って教えて戴き、技の要点がよく理解でき、今でも図書館の本の管理のように技が引き出せるのは、先生のご指導の賜物です。あらためて先生の偉大さを身にしみて感じております。

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​優しさと武勇

結婚早々、先生ご夫妻が朝4時半頃、我が家に来られ、我々が寝ている間に、畑を耕しトウモロコシの種を蒔いて戴いた事もありました。我が家の庭木の大部分は先生からのいただきもので、庭木の成長を見ますと年月の経過の早さを強く感じます。

 

ある時は、隣町の鮨や(先生の友人)から「無頼の者が数人暴れて商売にならないから何とかしてくれ」と電話があり、先生のオートバイで駆けつけ、それなりに解決し、内弟子の身には貴重な日本酒と鮨を、この時とばかりご馳走になりました。当時はこのようなことは日常茶飯事で、酒を飲めば喧嘩が当り前の時代でした。当時の先輩方の合言葉は「火の粉の無いところには煙はたたぬ、火の粉の無いところは自分で火の粉を熾せ」、腕試しをしたいため火の粉が有る所に行き、またその火の粉が無い所は、自分から火の粉をつくり、腕試しを楽しむことができた良き時代であったと思います。飲み屋の女将は先生や磯山先生の顔を見ると、暖簾を下げ店じまいにしてしまったようです。

 

また、私の企画とドナルド森山氏(合気道八段位・パールシティー在住)の協力で、講習会と先生の還暦祝いをハワイで催しました。全世界より多くの先生の弟子に参加してもらい盛大にできました。この時の先生に喜んで戴いた笑顔は忘れることが出来ません。

感謝

先生は腹に貯めておくことが出来ない性格で、よくカミナリが落ちました。しかし、その後は何も無かったかのようにサッパリしたものでした。先生は合気道のこと、子供、孫のことまで、常に先々を考え、どうしたら最善か、安全か、無駄がないかを考えて行動していました。以前より、自分の葬式がし易いようにと庭の池をなくし、枯山水にしたり、庭木を少なくしたり、亡くなる10日前には、新しく墓石を建てて入魂式をやったりと、本当に準備のよい先生です。癌が脊髄に入ったため下半身が動かなくなり、末期癌を自覚しても最後まで病魔と戦い続け、苦しい中でも持ち前のユーモアで周囲を笑わせていました。具合が悪くなって亡くなられるまで約3ヶ月半、いろいろな方々とお別れができ、また4月29日の大祭には車椅子で出席できたこと、また先生の尊厳が保たれた終末....。 本当にご立派でした。これまでのご指導に対し、深く感謝申し上げます。

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Saito Sensei's Techniques

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